続 O型自分の説明書 (Jamais Jamais)

                 
続 O型自分の説明書 【文庫】 続 O型自分の説明書 (文芸社文庫 じ 1-8)
テーマは「選択」。こんな状況のとき、あなたはどんな行動を選択するのでしょう? 人前で恥をかかされると…。さてさて、O型はどんな行動を起こす? ことわざ「人の振り見て我が振り直せ」、人の振りを見たO型は…思わず、大爆笑?! 楽しく読みながら、より自分らしさがわかっていく本。

O型の人間の特徴と云われる大らかな狩猟タイプという認識をベースに、面白おかしくデフォルメしてシチュエーション毎にこうなるだろうという想像のもとで書かれている。自分について当てはまっている部分もあるし、そうでない部分もある。たぶん、A型やB型の本を読んでもそう感じるのだろう。突っ込んだら負けみたいなものなのだろうし、著者や編者からしてみればアレゴリーのような面もあるのだろうが、そこに描かれているADHDや発達障害のような人間をどう捉えていいのか少し考えたところはあった。
                 
        

モンキームーンの輝く夜に (たかのてるこ)

                 
モンキームーンの輝く夜に (幻冬舎文庫) モンキームーンの輝く夜に (幻冬舎文庫)
「私の運命のオトコが、なんでサル顔なわけ!?」。東南アジア最後の辺境ラオスで“旅人OL”が見つけた最愛の男は、サル顔の自然児だった。旅先でナンパされ、出会ったその日に告白されて…それでも本気でホレたから、“お持ち帰り”することに決めたのです!運命?勘違い?不安材料てんこ盛り。笑いと涙のハチャメチャ恋愛亡命記。

東映のテレビ番組制作部所属の30代独身女性である旅行好きの著者がラオスに行って年下の細マッチョな恋人を見つける話がメインの紀行文。

経済的には貧しいラオスの、しかし笑顔が溢れて幸福度指数の高さを伺わせるその牧歌的な魅力を、自分に対しても相手に対しても飾らない素直な文章で書き綴られている。気取ったところがない読みやすい文面からは多くの人を惹きつける著者の親しみやすさを感じ取ることができるものの、紙幅のほとんどがラオスで出会った恋人絡みの話しに割かれており、著者が折角ラオスの魅力をアピールしていても、読者としてはあばたもえくぼのように恋が目を曇らせているのではないかと邪推してしまうのが残念だった。逆に言えば、それだけ、主観的で等身大の感情が剥き出しにされている、という見方もでき、だからこそ共感できる読者もいるのだろう。

個人的には、自分が日本人だからきっと金目当てであったり日本へのビザ目当てでの接近だろうという疑いを全く持たず、日本に彼がいるのにあっけなくラオスの男にのめりこみ、挙句にはラオスの男女関係に対するうぶさ、貞操観念の高さを認識した上で、ヴァージンで「ピュア」な男を「自然のモノ」として持ち帰ることに何の恥ずかしさも感じていない著者の感覚には驚いた。これが日本の女とラオスの男ではなく、日本の男とラオスの女という設定だったら、「気持ち悪い」とか「人身売買だ」という類の批判を多く戴くことになるのではないだろうか。

ただ、2003年に出版されたことを考えると、ある意味では、韓流とかに近い、日本で今起きているヴァージニティーへの回帰を先取りしているうちの一冊ともいえるのかもしれない。
                 
        

サイゴンの昼下がり (横木安良夫)

                 
サイゴンの昼下がりサイゴンの昼下がり
もっとも若い世代は様変りしている。特にもともとの南ヴェトナムは、社会主義の時代より資本主義の時代が長く、アメリカに逃げたヴェトナム人、越僑も戻ってきている。だからアメリカが一番好きなのは当然だ。やはり人気の外国語は英語。そして世界中おなじようにアメリカンポップミュージックが人気だ。レンタルビデオで最新のアメリカ映画だって見ることができる。今ではマクドナルドだって進出している。ヴェトナムの文化がアメリカに支配されるのは、時間の問題だろう。

(引用 本書P181)

ベトナムについての紀行文と写真が掲載された本。1999年出版。
ベトナムについての歴史などに触れられているが、肩肘張ったものではなく、全共闘世代の著者の豊かな日本からの観光者という立場で、村上龍などに通ずる男としての俗な目線と感覚が素朴に押し出されている。写真もベトナムの日常のワンシーンを切り取ったものがあると思えば、モデルを雇って撮影したものもあり、あまり統一感がない。アオザイに透ける下着についての劣情やフェチシズムも隠すことなく率直に述べられており、その写真もふんだんに掲載されている。
ただ、やや気まぐれではあるし、ベトナムの風景を昭和の日本にノスタルジックに重ねるところも含め、ちょっとしたポルノにもなっているが、その分、親しみやすい一冊になっていると思う。

アオザイの透けブラ透けパンを堪能する写真集としてもどうぞ。

例えば撮影したのが外国人であり日本人であり、それぞれ日本の女子高生や女子中学生の姿を、制服のブラウスから透ける下着(ブラジャー)を少なからぬ度合いの目的として撮影し、その写真を掲載した本を出版するというケースだったらまた違った意味合いであり、展開が齎されるのだろうかとはちょっと考えた。

その野暮な懸念を笑い飛ばすかのように、古き良き日本が存在するベトナムの「おおらかさ」が凝縮されている。そのおおらかさが本当におおらかであるのかどうかは別の問題として、この本はそれが可能だった20世紀末の我が国のおおらかさの一つの証明ともいえるのかもしれない。

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お笑い創価学会 信じる者は救われない 池田大作ってそんなにエライ? (佐高信 テリー伊藤)

                 
お笑い創価学会 信じる者は救われない―池田大作って、そんなにエライ? (知恵の森文庫)お笑い創価学会 信じる者は救われない―池田大作って、そんなにエライ? (知恵の森文庫)
テリー「オウム真理教がいろいろな問題を引き起こして、宗教に対する見直しをするなんてことが言われ始めているけど、現実にはできないですよね」

佐高「団体規制の法案をオウム新法などと言うでしょう。危険な団体だと。でも本来、宗教とか思想というのは、危険な部分を持っている。時の権力者や現在の世の中に対する批判から出てきているんだから。危険ではないものは逆に宗教でも、思想でもないんだよ。
それでは今日、オウム真理教が危険で、創価学会が危険ではない分け目はいったい何なのか。創価学会は政権与党になったから危険ではなくなったのか。それとも組織自体が危険でなくなったのか。そのことは創価学会にとって名誉なのか。
本当は危険な存在であることが宗教団体として名誉なことだと思うね。創価学会は日蓮正宗の信者の集まりです。宗祖である日蓮は他宗を批判し、「立正安国論」を書いたことで伊豆に流される。それでも志を曲げなかったために次には佐渡に流された。そのくらい危険な要素を持っていたんだよ。これが宗教の姿でしょう。
今の創価学会は危険ではないことを売り物にしている。オウム真理教とは違いますよ、ということを盛んにアッピールする。すでに宗教ではなく、権力欲で動いている証拠です」

テリー「危険でないことで権力を握っていることが国民にとっては危険ですよね」

(引用 本書P70)

佐高信とテリー伊藤が創価学会について対談形式で語ったものが収録されている。
対談そのものは、創価学会に対して読者と大衆の好奇心を刺激し、偏見を煽るような切り口と内容で、ワイドショー的な通俗的でわかりやすいものとして佐高とテリーの抱く創価学会への警戒心が伝わってくる。

インターネットが普及した今となってはそれほど目新しい情報と分析でもないのだが、本書が出版された2000年はまだネットへの接続環境が現在ほど整備されていないIT革命の森喜朗首相の時代ということを考えると、本書にあたっての佐高とテリーの目論見、それは本書の効果で創価学会にF(フレンド)として協力している無邪気な人間と、将来に創価学会へ入信するかもしれない潜在的な学会員に対してストップをかけることでF票を剥がそうというものだが、そのために紙媒体であえて大衆の読みやすい低俗な創価学会批判をやってのける度胸とセンスは見事なものだ。

ただ、その目論見は本書を読み進めるとエクスキューズにされているように感じた。我々が漠然と抱いている創価学会への不気味な印象と不安を見事に翻訳してみせるテリー伊藤の芸当などは流石だと思う反面、調子に乗って悪ふざけをしているようなレトリックと勢いだけで自省無く相手への攻撃を押し通し続ける点と、章の合間に挿入されたジャーナリストのルポや元信者の体験談が説得力がある質の高いものだっただけに、その前後を挟む形で繰り広げられる佐高とテリーの対談の内容がその合間のサンドイッチの具のテキストの説得力に甘えて、読者に錯覚してもらおうと本書が構成されている点に、創価学会への不安よりも創価学会批判への不安を感じてしまうところがあり、残念だった。
                 
        

国家の品格 (藤原正彦)

                 
国家の品格 (新潮新書)国家の品格 (新潮新書)
 経済改革の柱となった市場原理主義をはじめ、留まるところを知らないアメリカ化は、経済を遥かに超えて、社会、文化、国民性にまで深い影響を与えてしまったのです。金銭至上主義に取り憑かれた日本人は、マネーゲームとしての、財力にまかせた法律違反すれすれのメディア買収を、卑怯とも下品とも思わなくなってしまったのです。
 戦後、祖国への誇りや自信を失うように教育され、すっかり足腰の弱っていた日本人は、世界に誇るべき我が国古来の「情緒と形」をあっさり忘れ、市場経済に代表される、欧米の「論理と合理」に身を売ってしまったのです。

(引用 本書P5-6)

「論理」を信用しすぎて、それに支配されると、日本が世界に誇るべき「情緒」が失われてしまうことになるので、日本人はアメリカやアメリカかぶれのいうことよりも、祖先や伝統文化を大事にしようということが主張されている。
具体的には、戦後教育や市場原理主義などを仮想敵に設定していて、進むグローバル化と新自由主義的価値観の浸透に抵抗を試みた一冊になっている。
欧米の論理に相対する大和魂もまた著者によって論理で立ち向かわされている点と、仮想敵の悪い部分をあげつらうだけの先にある「武士道と情緒」に説得力があるのかというところで、危なっかしさはあるものの、漠然とした不安が蔓延する閉塞した社会に生きる日本人に対して、この国で育まれた「ならぬことはならぬ」の問答無用の美しい道徳を学んだ誇り高き日本人のあなたは論理的に説明できなくても正しいので誇りと自信を持ちなさいと、全力で「日本人」を肯定し、称揚した、痛快な一冊でもあった。
著者流の祖国愛の発露であり、思いやり、惻隠の情でもあるのだろう。
                 
        

愛国者は信用できるか (鈴木邦男)

                 
愛国者は信用できるか (講談社現代新書)愛国者は信用できるか (講談社現代新書)
「言挙げしない」。それが日本人のよさであり美徳だった。それに「優しさ」「謙虚」「寛容」だ。これが日本精神であり、国を愛する心だった。ところがこの美徳を忘れ、傲慢で偏狭、押し付けがましい「愛国者」が急に増えた。「自分こそ愛国者だ」「いや俺の方こそ愛国者だ」と絶叫し、少しでも考え方が違うと「反日だ!」「非国民だ!」と決めつけ排除する。
 しかしこうした者たちこそが日本の美徳を踏みにじり、最も「反日的」ではないのか。
 そんな疑問、思いからこの本を書き始めた。「愛国者」の勘違いを教えてやろう。にわか愛国者、アマチュア愛国者、オタク愛国者に、本当の愛国心を教えてやろう。そう思ってこの本を引き受けた。「そうですよ。愛国運動四十年。愛国心なら何でも分かるでしょう」と名編集者の岡部ひとみさんに煽られた。「この本を欠けるのは鈴木さんしかいませんよ」と言われた。「そんなことありませんよ」と謙遜しながらも心中、「そうだろう」と思った。よし、「プロの愛国者」、「日本一の愛国者」の真髄、本領を見せつけてやろうと思った。
 ところが書き始めて後悔した。愛国心は諸刃の剣だ。これからが本当の愛国心だと言挙げしているうちに、その刃は自分にも向かってくる。「お前だって偽物だ」「形や量だけにこだわった薄っぺらな愛国心ではないのか」と問いつめてくる。愛国心を最も誤解していたのは自分かもしれない。愕然とした。それだけ「愛国心」は難しい。「愛国者」になることも難しい。そのことだけでも分かってもらえればいいか。

(引用 本書P193-194)

誰よりも愛国心があると自負する新右翼の大物とやらが問う「愛国心」。
右翼活動をずっとやってきた経験から先輩であり年寄りという立場で、保守化しているといわれている「若者」に対して、ニワカとかアマチュアとかオタクとか言いたいことを言っているわけだが、著者も若い頃は自身が揶揄するような右翼だったと宣言しており、その頃への自省からネットに蔓延る攻撃的排外的保守や愛国心を強制しようと考える人達に対して警鐘を鳴らしている。

著者の懸念はよくわかるのだが、如何せん著者のいう寛容さというのが選別された相手にしか適用されていないので、ネット保守などに対する分析と推察がほとんどないままに侮蔑したレッテルが適当に貼られているのと、「愛国心」というマジックワードを巧みに利用し、日本の本来である昔は寛容で謙虛だったなどと昔を美化して現在を卑下し、素朴な感情に訴えるやり方がどうしても気になる。

しかし、著者はこれらをあえて自覚的にやっている。言葉遊び的で、「愛国者の品格」といった題の方がふさわしいのではないかという内容になったのは、それに対する批判の作業をする過程で自身のことを見なおしてもらいたいという思いが込められていることが読み手に伝わってくる。

ただ、たとえそれがどんなに寛容で正しいとされる形をとられていても、愛国心に本物か偽物かを峻別して自分が本物であるという立場から必然的に相手を紛い物としてしまう批判のほうが偏狭なナショナリズムとやらよりもよほど攻撃的で排他的になっているケースがある。
ネット上に散見する本物のリベラル、本物のフェミニズム、本物のオタクとはなんぞやといった議論にも通ずる違和感ではあるのだが、著者はこの言葉遊びについてはもう少し考えた方が良いとは思った。
日本は美しい、言霊の国なのだから。
                 
        

ジェンダーで読む福祉社会 (杉本貴代栄)

                 
ジェンダーで読む福祉社会 (有斐閣選書)ジェンダーで読む福祉社会 (有斐閣選書)
 しかし、このような報告が「事実」であったとしても、女子高校生全体の四〇%が売春をしているわけではない。その理由は、たとえ女子高生の売春に対する罪悪感が薄れつつあるとはいっても、売春が「してはいけないこと」であり、少なくとも「やりたくないこと」であることは、女性という「性」を持つ限り自明のことだからである。当の女子高校生がどう自分に言いつくろおうとも、自分の身体を売ってお金を得ることが、快適な経験のはずがない。つまり売春とは、女性にとっては体と心とお金を危険に秤にかければ、いつも変わらず「割に合わないこと」だからである。
 それでも女子高校生による売春は、増えていると推測される。その背景には、「やりたくないこと」だけれど、自分の身体がお金になることを知った少女たち、「今」なら高く売れることを知った少女たちと、それを「援助交際」という曖昧な名で買春する男たちがいるからである。「自主的な」「気軽な」ノリの「援助交際」とは、何のことはない、その昔から変わらない売買春の構図と同じなのである。たとえ選択権が女子高校生の側にあるとはいっても、旧態依然の売買春の構図を「自主的」とはいえない。

(引用 本書P242-243)

1999年に出版された本。
ジェンダー偏在を修正することが社会福祉にとって必要な課題であるという認識が広がっているとした上で、社会福祉とジェンダーを相互関連づけてジェンダー視点から福祉社会を読み解くことに挑んでいる。

第1章 社会福祉政策と制度
第2章 家族・労働
第3章 児童福祉
第4章 母子・父子世帯
第5章 高齢者福祉
第6章 障害者(児)福祉
第7章 社会福祉のヒューマン・パワー
第8章 セクシュアリティ・人権

8章立てで構成されており、どの章も共通しているのはジェンダーバイアスへの批判である。
全体的には弱者の側に立つというスタンスで女性の味方をしている。映画やマンガの作品とその背景を例に挙げて親しみやすさを意識しながら、福祉社会の課題とそれを阻む問題点について理路整然と説明されている。
著者によれば、社会福祉に関する問題は女性の問題として出現する。それは、女性が介護・家事的仕事をこなす性別役割分業意識が社会全体に根強く、そのことが女性を低賃金に貶め、女性が大半を占める福祉労働者等の待遇の劣悪さや社会の様々な問題に繋がっているという。
売買春問題のように数字などの客観的データから一方的に社会であり男性への批判を導きにくい問題についてはフェミニストらしいバイアスのかかり具合が引っかかるところもあるが、それすら臆さない堂々とした文章だった。

個人的に気になったのは高齢者福祉の章で、自分自身、女性(嫁)が配偶者の親を介護するという光景が好きではないというか嫌いといっていいほどなのだが、高齢者の意識によると男性は家庭での介護を望む傾向にあり、女性は家庭で被介護者になることに消極的で外部サービスへの利用を希望する傾向があるというデータは興味深かった。
嫁姑問題のように、姑という存在は嫁を好きなだけいびりながら、老いたら嫁に介護してもらう、そんな腹づもりというイメージがあったのだが、女性のほうが家庭で介護してもらうことに消極的であるというのは、女性の方が男性より平均寿命が長く、配偶者より年下であることが多いので、配偶者(夫)からの介護を期待できないのと、介護が重労働で苦痛であり、よほど苦労したか、もしくは同性の苦労を見てきた経験があってのことだろうか。
あるいはフェミニズムの影響に高齢者であっても女性の方が敏感であるということなのかもしれない。
しかし、外部の福祉サービスを利用するとしても、そこには低賃金で働く女性たちの苦労によって支えられている実態があり、本書が指摘する流れから云えば、それは男性社会であり家父長制を支えるために組み込まれた都合の良いシステムであるともいえ、考えさせられた。
                 
        

さよなら原辰徳 栄光と悲劇の四番打者 (荘田健一)

                 

さよなら原辰徳―栄光と悲劇の四番打者
 数字的に見れば原の四番打者としての成績は立派な合格点となる。
 だが、あくまでさわやかで、いつも優しかったイメージが、どうしても非難の対象になってしまっていたのである。
 原はこんなことを言っていたことがある。
「今の時代、僕みたいなタイプはファンには受け入れにくいのかも知れないね。江川さんとか落合さんとか、ああいうアウトローのタイプの方がファンは支持するのでしょう。でも、これは僕が持って生まれた性格だから、どうしようもないんです」
 原は自分の置かれている状況をちゃんと自覚していたのである。
 それでも闘志を内に秘め、あくまでもスマートに、紳士の誇りを持ってプレーする姿勢を貫き通した。
 その姿勢がどれだけ素晴しいことか、ファンは原が身も心もボロボロになって引退していく時にハッと思い出したように気付いたのだった。
 思えば長嶋監督解任以来、ずっと暗い話題が多かった巨人の中で、唯一、昔ながらの巨人の「正しい」イメージを守り通したのは原だけだった。
 ファンを大切にし、言動に気をつけ、華麗なプレーを見せ、スマートに選手生活を送る。
 もう誰もできなくなってしまったこのスーパースターのイメージを原は守り通した。

(引用 本書P2-3)

僕がプロ野球を見始めた時、家は地上波しか映らなかったので、巨人戦しか観られず、プロ野球を熱く楽しむためには、巨人ファンかアンチ巨人になるのが必要だった。僕はアンチ巨人になった。それは長嶋茂雄監督によるFA宣言した他球団の主力選手を無節操に(見える形で)獲得する姿勢が嫌だったし、どんなに負けても巨人は常に地上波で試合が全国中継されている人気球団なのだから巨人と対戦する他の球団に勝ってもらった方が全体としては面白くなるんじゃないかと思っていたからだった。

そんな頃のそんな思いだったが、原に対しては悪いイメージはなかった。見た目が爽やかだったし、僕が野球に興味を持った時、選手としてはもう落ちぶれていたところで、それでも這い上がろうとしているという印象付けに好感を抱いていた。巨人という嫌いな球団であっても、かつてのヒーローが終わりを迎えつつあるとき、それが他の球団の選手とはまた違う特殊な感情として同情してしまうのは、僕がプロ野球を浪花節の高校野球と同じ感覚で観ているからというのと、やはりあの頃のアンチ巨人は、結局のところ、巨人ファンだったからなのだと思う。

本書は原辰徳を主人公に、全編通して徹底して彼を美化、擁護する格好で書かれている。選手時代の成績と監督時代の成績を見れば、原が野球人としては優れた存在だというのはわかる。

原が人間的にどうかというのは僕にはわからない。不倫や暴力団絡みのスキャンダルが引っかかるというのもあるが、あまりにイメージを作ることにこだわり過ぎているようでピンとこない。アイドルを見ているかのような違和感と心地よさはあるが、それが巨人のスーパースターというやつなのだろうか。巨人に対するこだわりを愛であると原も著者も表現しているが、それはスターであること、アイドルであることへのこだわりなのかもしれない。そして、その固く作られたイメージを誰よりも浪花節の高校野球ファンである僕が求めているのだろう。それがまた巨人に対する愛憎の念に繋がっていて、僕をアンチ巨人に駆り立ててしまう。愛され、憎まれるには、原のような存在は「巨人」という球団には常に必要なのかもしれない。
                 
        

種まく子供たち 小児ガンを体験した七人の物語 (佐藤律子)

                 
種まく子供たち―小児ガンを体験した七人の物語種まく子供たち―小児ガンを体験した七人の物語
僕がいる病院の院長に「あなたのようなガン(骨膜肉腫)患者は、日本に十人もいませんよ」とはっきりいわれたとき、ショックはなかったです。逆に、僕は「じゃあ、僕が治ったら第一号ですね」といったのです。それからですね。精神的に浮いていた自分が、今のように地面を見つけ、前に歩き出せるようになったのは。今はガンになった自分が好きです。だってガンは僕の家族を強く結びつけたし、自分の性格もかわってきました。内にこもる性格から外に出す性格へとね。もしかしたら僕は暗闇に身をひそめてふるえながら死んでいったかもしれない。でも僕には僕のことを思ってくれる親友がいました。そして好きな子も……。フラれたけどね。そしてなにより両親がいたのです。
   拓也の手紙より

(引用 本書P173-175)

息子を小児ガンで亡くした経験から、小児ガンの子供たちをなにかの形で応援したいという思いでつくられた小児ガンの体験談集。闘病している子供たちは、元気の種や勇気の種、思いやりの種など世の中にたくさんの「種」をまきつづけており、その種がいつか芽ばえ、たくさんの人の心のなかで育つことねがって書名を『種まく子供たち』としたのだとか。

この手の本が意図していることに、厳しい現実に必死に立ち向かっている人たちの姿への感動と、当たり前のように生を戴いている今の自分を考え直す作業への導きがある。これは親の子に対する接し方であり、子の親に対する接し方にも云える。

自分が、もしくは自分の子どもが、小児ガンであることを宣告された時、余命がわずかであることを宣告された時、少しでも運命に抗おうとし、残された時間を精一杯生き抜く姿とそれを支える存在は確かに感動的だった。
高額の医療費という金銭的負担を背負い、子どもにつきっきりで看病できる程度に時間に融通を利かす、これを子どもへの愛とやり遂げてみせた、胸を張れる人達が集められている。
借りぐらしのアリエッティの翔のようなケースがこの七人の物語の裏にどれだけ隠されているか僕は知らないが、本書が伝えているのは子どもたちのひたむきで純粋な姿だけではなくて、それを支え、子どもと一緒に病と闘う親の姿も熱く伝わってきた。

自分も本書に励まされた。だが、一生懸命生きようというよりは、運命は残酷で、人間死ぬときは死ぬのだから、今を気楽に生きてもいいんだ、という風に自分を肯定することができた。そして、自分とは違い、今を一生懸命生き抜こうとしている人、それを支える人については、そういう現実があることを受け止めている彼らの労と温かさに対して、自分の中で感謝をしたい。
                 
        

日本の10大新宗教 (島田裕巳)

                 
日本の10大新宗教 (幻冬舎新書)日本の10大新宗教 (幻冬舎新書)
 日本の新宗教にイスラム教のような動きが起こるとは思えないものの、時代状況が変化すれば、宗教はたちまちその力を取り戻し、蘇っていく。日本の歴史を振り返ってみても、宗教の衰退と復興がくり返されてきている。社会全体が注目するような新宗教が、いつ登場したとしても不思議ではない。一時中国で爆発的に伸びた法輪功のように、インターネットを媒介にして広がっていくような新宗教もある。
 これからどのような新宗教が生まれ、その勢力を拡大していくのか。それは、日本の社会がどう変化していくかにかかっている。新宗教に集まってくるのは、その時代の大きな流れについていくことができなかったり、社会のあり方に不満をもっている人々である。社会が変われば、不満の中身も変わるし、どういった人間が不満をもつかも変わる。その点で、新宗教は時代を映す鏡としての性格をもっている。その鏡に何が映るのか。私たちは新宗教のこれからを見つめていかなければならないのである。

(引用 本書P212-213)

新宗教をめぐるさまざまな問題を踏まえた上で、主な十の教団を取り上げ、それぞれの教団の成り立ちや歴史、教団としての特徴などを紹介することで、日本の社会における新宗教のあり方を概観していく、という本書。
教団の規模、社会的な影響力、時代性を考慮して選んだ十の教団は、反社会的な性格を示していたり、「カルト」として扱われることが多い教団はリストアップしなかったとのこと。

本書で取り上げられている十の新宗教とは、

・天理教
・大本
・生長の家
・天照皇大神宮教と璽宇
・立正佼成会と霊友会
・創価学会
・世界救世教、神慈秀明会と真光系教団
・PL教団
・真如苑
・GLA(ジー・エル・エー総合本部)

となっており、馴染みのあるものから無いものまで色々で、正直に云って、十大新宗教と云われてもピンとこないところがあるのだが、客観的視点で書かれた各教団の概略はなかなか面白かった。トピック毎、紙幅が限られていることへ物足りなさを感じるほどで、その半端さが結果的には余計に新宗教というものに対して自分を身構えさせた。これは自分の創価学会への印象と似ているなと思った。

ただ、著者によれば、これらの新宗教は時代を映す鏡であり、そこから、社会に振り落とされ、見捨てられた存在と構造の問題が見えるのであり、新宗教の問題は社会の問題として捉え、また、彼ら新宗教の信者(候補)に対する白眼視や否定的な接し方を問い直すべきであるというようなことを仄めかしている。肯定されたい、豊かになりたい、という思いは普遍的な願望なのだから。

それと、「新宗教に集まってくるのは、その時代の大きな流れについていくことができなかったり、社会のあり方に不満をもっている人々である」のならば、現在は新宗教の教団よりもネットの方が新宗教っぽいといえるのかもしれない。
                 
        

遺書 (松本人志)

                 
遺書遺書
「最近テレビがつまらない」なんてことをよく耳にする。まぁ、オレなんかは作る側の立場なわけで、そういう意見を聞くと、正直、悲しくなってしまう。
 確かに、つまらん番組があまりにも多い。なかにはつまる(おもしろい)番組もあるのだが、つまらん番組が多すぎるために、いっしょくたにされてしまっていることが、モーレツに腹立たしい。
 ちなみに、オレの番組などは、しっかりと見、しっかり聞いてくれれば、それとは違うということがわかっていただけると思うのだが。まぁ、昔のテレビが、いまとくらべてそんなにおもしろかったとも、オレなんかは思わないのだが。
 では、おもしろくないと言われる原因は、いったいどこにあるのだろう。
 理由はたくさんあるだろうが、いちばん大きな理由としては、この不景気であろう。単純に、いいものを作ろうと思えばカネがかかる。そのカネがないのだから困ってしまう。

(引用 本書P123-124)

1994年出版。松本人志が週刊朝日に連載していたコラムが収録されている。

お笑いコンビ「ダウンタウン」として飛ぶ鳥を落とす勢いがあった頃の松本人志30歳の感性が本というメディアに収録されており、その鋭さとユーモア溢れるテンポの良い文章は娯楽として楽しめる内容になっている。まさにあの頃のブラウン管の中の松本人志が語っているような、その程度には「芸」を意識してさらけ出されているのだろうが、お笑いというのは差別的で攻撃的なものだ、という意味も含みながら非常にエネルギッシュに突き抜けられている。
自分中心で蔑視や嫌悪の感情で笑いを取って許されるのがプロであり、つまらないものは絶対に認めないというプロ意識、自分はこの嫌われ者のお笑いの道一本で行くという著者のストイックな姿勢は素晴らしいものがあるのだが、2012年現在のマルチタレント松本人志という存在を考えれば、やはりこの頃の著者は若かった、ということだろう。とはいえ、著者に限らず、若いというのはこういうことなんだなという意味でその尖り具合に共感はあるし、嘆息もした。
                 
        

ゲゲゲの女房 (武良布枝)

                 
ゲゲゲの女房ゲゲゲの女房
 私は、身長が一六五センチもあって、当時としてはものすごく背が高いほうでした。女学校に入るときには、後ろから四番目ぐらいだったのに、卒業するまでの間にひょろひょろ伸びてしまい、学年でいちばん背が高くなってしまったのです。私が引っ込み思案だったのは、身長が高すぎるというコンプレックスもあったかもしれません。だから、結婚に対しても、私自身、ちょっと臆病な面もありました。
 でも、もうそんなこと、いっていられません。祖母も亡くなり家業に人手が足りるようになった以上、この家を出て行くことを真剣に考えなければならないと思ったのです。それはつまり、どこかの人と結婚して、その家に入るということでした。ひとりで生きていく技術も経験もなく、誰かに頼って生きていくしかない私にとって、家を出る唯一の方法が、結婚でした。
 でも、自分で相手を見つけるなんてことは、とてもできません。チャンスがないというのではなく、そういう発想すら、私の中のどこをさがしてもなかったのです。こういうと、いまの若い人には奇異に聞こえるかもしれませんが、都会ならいざ知らず、当時の地方では、見合い結婚が当たり前で、恋愛結婚などとんでもないという時代でした。ですから私は、誰か、いい縁談を持ってきてくれないかしらと、ひたすら願っているだけでした。そのころ、よくお墓参りに行っては「私が縁付いていくところが、幸せでありますように」と祖母にお願いしていました。

(引用 本書P27-28)

水木しげるの妻、武良布枝による自伝。
2010年にNHKの連続テレビ小説としてドラマ化もされ、その夫唱婦随を地で行く保守的なスタイル、まだ貸本漫画家だった頃の水木しげると結婚し、貧困生活を共にし、夫を支え続けたという良妻賢母ぶりが注目を集めた。

水木しげるは自伝『ねぼけ人生』の中のあとがきで、「自分の貧乏生活をふりかえってみたところで、少しも面白くない」「いや、この貧乏ってのが、今は珍しいんですよ。だって、今、貧乏ってのはあまりありませんからねえ」「貧乏ってのがそんなに珍しいのかなあ」と、編集者とやりとしているが、ゲゲゲの女房における結婚観、男女観といったものもまた同様であろう。

読んで、思ったのは、当時の空気であり、著者のような保守的な考えの女性だと実家から出るには結婚して男性に自分の人生を委ねるしか方法がなかったのだなということ。

一人の男性の双肩に自分の人生がどうなるかのほとんど全てが懸かっているのだから、大変な博打だが、だからこその波瀾万丈のドラマになっている。
本当は貧乏で生活が苦しいのにそれを隠したまま見合いをした水木しげるは相当にひどいと思うのだが、著者が根に持っていないのは、後で水木が成功したからというのではなく、自身の直感と実感による水木への好意と、見合い相手の査定に厳しかった尊敬する父親が認めた男だったこともあるのだろう。

「人生は終わりよければすべてよし」という著者の言葉も、最終的に水木しげるが成功して大金持ちになったからというわけではなく、貧困生活を支えた自身の健気さが際立つことへの照れもあるのだろうし、また、本書の温もりあるサクセスストーリーの裏には著者のような幸福な家庭に恵まれなかった多くの女性達の涙が流れているし、水木しげるのようになれず売れないままペンを折ることになった多くの作家達の血が流れているという残酷な現実があり、水木の横で関わってきた人たちへの幸せを願う優しい眼差しを感じさせた。そういう人柄の良さと厳しい人生を送った経験の凄みを本書からは感じることができた。

そして、結婚して妻でいることってすごい才能と努力がいるものなのだな、と。
                 
        

ティータイム あたたかい家庭 幸せのアイディア25 (大川隆法)

                 
ティータイム―あたたかい家庭、幸せのアイデア25ティータイム―あたたかい家庭、幸せのアイデア25
子供が親に反抗するほんとうの理由とは?

 家庭内暴力の原因の一つはストレスです。これは間違いありません。
 子供への押しつけが多くなると、これに対して、個性ある者の反乱が起きます。子供が反乱を起こす場合、たいていは、親が子供に対して、「おまえはこうしなければならない」「勉強しなければならない」「この仕事に就かねばならない」というように、特定の価値観を押しつけています。それが家庭内暴力の原因なることが多いのです。
 たとえば、親から、「おまえは、将来、絶対に医者にならなければならない。そのためには勉強ができなければならない。国立の医学部へは並の頭脳では入れないし、私立大学へ行かせるほどのお金はない」と言われて受験勉強をしていた息子が、最後には、気が狂ったように暴れるということも充分にありえます。
 親のほうは、何か失敗体験、挫折体験があって、「自分はうまくいかなかったから、子供だけは、なんとか幸福にしてやりたい」という親心で、子供にいろいろとお仕着せを着せるのですが、子供にとっては、たいへん迷惑な話であることが多いのです。
 親の考え方と子供の考え方は違います。親のほうは「子供の気持ちを全部分かっている」と思うかもしれませんが、子供は、十代の後半ぐらいになると、親とは違うことを考えているので、親には子供の心の内が分からなくなっています。
 子供の価値観は、親にとっては意外なところにある場合があるのです。

(引用 本書P70-72)

宗教法人「幸福の科学」総裁の大川隆法による「ティータイムの一杯の紅茶を飲む間に、あなたの人生を変える」をテーマにした本。
著者によれば、学校生活には教科書があるし、会社の仕事にもマニュアルというものがあるが、家庭生活には誰もが参考にしうるテキストがないとし、家庭生活を幸福にするための教科書や参考書を提供するのが、宗教の一つの使命だと思っている、とのこと。

平易で簡潔なテキストの中に魂や霊などの宗教的な観念がたまに用いられていることがありながらも、基本的には保守的な視線を女性(母と妻)に向けて、家庭というものについて穏やかに綴られている。

個人的には霊言や霊査、宇宙人といったエキセントリックな方面から大胆に語ってもらいたかったところではあるのだが。
                 
        

ねぼけ人生 (水木しげる)

                 
ねぼけ人生 (ちくま文庫)ねぼけ人生 (ちくま文庫)
 僕は、子供の時、軍人にあこがれていた。それは、勇ましいからだったが、勇ましいというのは、他人がやっているのを鑑賞している時の気分で、自分が参加すると、勇ましいというより怖いものなのだ。自分が、いやでも参加させられる年齢が近づき、しかも、もはや絵描きになるつもりになってしまうと、軍人や戦争や、まして戦死なんかは、うとましいばかりだった。
 ところが、新聞や雑誌では、文化人や有名人といった連中が、若者は国のために戦争で死ぬのが当たり前で、天皇陛下のために死ぬのは名誉なことだ、というようなことを言って、自分に都合のいい万葉集の歌なんかを引用して力んでいた。
 駅頭の人ごみでは、千人針といって、千人の女の人の手によって縫われた腹巻を作り、それでタマヨケになるという不思議な運動をやっていた。そのすぐ後では、歓呼の声に送られて汽車に乗る出征兵士の姿が見られた。
 そうこうしているうちに、僕の好きな菓子が菓子屋から消え、砂糖が配給制になりだした。
 僕は、それまで、胃腸も丈夫なズイボで、寝ることも好きで、動きまわったり絵を描いたりして楽しく生きてきた。だから、ここへ来て、死がせまっていることを考えるのは、非常につらいことだった。

(引用 本書P74-75)

「ゲゲゲの鬼太郎」の水木しげるによる自伝。
著者の見た戦争と戦後を背景に、ガキ大将・落ちこぼれ・戦争・マンガ家、それぞれのステージとシーンで水木しげるはどこでも水木しげるで変わり者だったんだなあというのがよく分かる興味深い内容になっている。面白い存在だからどんな道でも面白い人生として歩むことが出来るのか、人生をユーモラスに彩ることができる才能というものに魅せられる一冊だが、その波瀾万丈の道程は戦争による死への恐怖や貧乏による苦しみなど哀しみにも満ちている。
だからこそ読んでいて面白い、ドラマになるのだ、という面もあるのが皮肉的だが、著者の寝て過ごす方が好きだというその朗らかな幸福観、枠からはみ出る個性と考え方、楽天的な物の捉え方は趣味人的なタイプにとってはとても魅惑的に映るのではないだろうか。読んでいて、死生と自然、祖先、霊、妖怪といったものに対してのロマンを少し共有できたような気になれるのも楽しい。

でも、そんな著者でも貧乏はやっぱり怖いと漫画家として売れ出したら以前の貧困生活に転落しないように我武者羅に働いたということだから、人気商売の辛さ、漫画家の厳しさも窺えるが、当時の日本というものがそういうものだったのかもしれないし、家庭を持つということはそういうことでもあるのだろうが、これが日本の物質的豊かさの原動力でもあるのだろうかなどとも思わせる。

NHKの朝の連続テレビ小説としてドラマ化された「ゲゲゲの女房」で貧困時代を支えた奥さんとの結婚生活にも注目を集めたが、本書ではそちら方面の描写は少ない。奥さんは著者の趣味である軍艦模型作りに参加していたということが書かれている。
                 
        

母の曲 (池田大作)

                 

母の曲
 お義母さんが倒れたのは、六十五歳の時であった。クモ膜下出血で、八時間におよぶ手術。命は助かったものの、痴呆の症状が出た。嫁である藤野さんが病院に付き添うが、まだ二歳の娘さんには手がかかるうえ、次の子をみごもっていた。当然、過労には過労が重なる。ついに介護する彼女まで倒れて、点滴を受けながら、それでも付き添いを続けたという。
 まだ結婚して何年にもならない。二十代の若い女性にとって、こうした過酷な現実は、どれほど衝撃であったことだろう。「なぜ私だけが……」と思い、「寝たきりのお義母さんを介護するのが、私の人生なのか」と自問したそうだ。
 だが、さいわいなことに、彼女には信心があった。祈ることができた。仏法を学んで、自らをみつめ、人のためにという心を持っていた。
 しんしんと唱題するうち、三世の生命観から、一つの思いが浮かんだという。
 ----お義母さんとの出会いは、たんに夫の母だからなのか。私が嫁だから、たまたま看ているのか。そうではないはずだ。お義母さんは過去世において、私を助けてくれた恩人だったのではないか。次の世では私が恩返しします。と誓って生まれてきたのではないか……。
 そう思いいたった時、藤野さんの覚悟は決まった。すると、なんと、お義母さんの痴呆の症状がほとんどなくなったのである。「あなたに二十八円、貸したわね」と、かつて端数のお金を立て替えたことを思い出した。「うれしい二十八円でした」と藤野さんは言う。

(引用 本書 P73-75)

21世紀を母子の幸福の世紀に、女性の輝く世紀に。
肝要なのは心の持ちようであり、楽観主義であれば、苦ではなくなる。自分が強くなる。自分が成長して、人に影響を与えていく。それが「創価」、すなわち「価値創造」の生き方である。創価学会

宗教というのは、道徳教育の強化を訴える保守派の理想の極致みたいなところがあって、僕もそうだから、こういうのはやっぱり怖いし、怖がらなくちゃいけないと思ってる。
教育は教育として堅苦しいものが必要ではあると考えるけど、道徳や教義に支配される人、それが幸福であるか不幸であるかといった個々人にスポットライトを当てた時の価値観のありようはともかく、そういう人がいるということは保守派だからこそ少し大袈裟に捉えてもよいテーマだ。

本書を読んで、著者である池田大作さんという方が魅力的だというのは伝わってきた。
本書も重要な広宣流布とやらの目的のための手段でもあるのだろうが、どんなに謙虚に振舞ってみせても名誉会長としての著者自身と創価学会という宗教団体とその教義に対する称揚と全能感を押し通す気味の悪さがある。
しかし、創価学会で幸せな人になった人を紹介しながらも、その裏にいるそうではない人、「魔」に負けたというのか、具体例は出されていないし、同じ信仰の同志に宗教者として穏やかさと優しさを以って心の安定を齎してるような、字面だけ追えば良いことしか書いてないのだが、その裏であり行間に確かな厳しさを仄めかし、わざと読み取れるようにしている。
それがどういう思いであるのかはわからないが、人間臭さと泥臭さは感じた。
完全無欠、ボロを出さないようにするのではなく、わざと悪意を持って読み取れるようにする「隙」が演出されている。
果たして、学会員の方はどういう思いで読んだのだろうか。と、そこまで思いを馳せることができる楽しさがある。

本書でいう「女性」とは「母」であり、「母」であるとは家庭の要であり、子どもの第一の教育者であり、また、地域の要として広宣流布の重要な戦闘員である。ちょっとしたフェミニストばりに男社会というものを批判しておきながら、女性を家庭の枠組みにきっちり嵌めようとする。
勿論、そこも読みようによってどうとでも解釈できる。でも、結局は組織主義になっちゃうんだっていうズッコケ感、ツッコミどころ、そのあたりの苦しさに男臭さがあってなかなか面白かった。 
                 
        

鬱の力 (五木寛之 香山リカ)

                 
鬱の力 (幻冬舎新書)鬱の力 (幻冬舎新書)
五木 いまの世の中で気持ちよく明朗に、なんの疑いもなく暮らしてるような人というのは、僕はむしろ病気じゃないかと思うんです(笑)。毎日これだけ胸を痛めるようなニュースがあって、気分が優れないのは当たり前でしょう。心がきれいな人、優しい傷つきやすい繊細な感覚の持ち主ほど、いまはつらい時代です。
 そういう時代に「あーあ」と思わず溜息をつくのは、その人がまだ人間らしさを残してる証拠です。いまの時代は「ちょっと鬱」というぐらいが、いちばん正しい生き方じゃないでしょうか。それまでもひっくるめて病気にしてしまってはまずいと思うんですよ。

香山 ちょっとでも非能率的なものは切り捨てるという風潮のなかで、もしかしたら一種の自浄作用として、社会の中から鬱というものが出てくるのかもしれない。でもそうなると、単純に鬱を全部解決すればいい、ということではなくなってきますね。

(引用 本書P20-21)

五木寛之と香山リカが鬱について対談した本。
鬱的な気分とうつ病をわけ、鬱な気分というものをテーマにした社会論評的な話で構成されている。

戦後日本はずっと右肩上がりで前だけ見て上を目指してエネルギッシュに走り続けた躁状態だったが、今は社会が成熟し、年を取りすぎた、登山に例えれば下山にあたる憂いのある鬱の時代であって、人々の気分が鬱の方向に転じていくのは自然であり、躁の時代のように無理に前を向かせて明るく振舞わせおうとする方が不自然なのだ。
そして、下山まで含んで登山であるように、下山だから発見できることがあり、醍醐味があり、鬱というのはとても大きくてユニークな魅力と可能性を秘めているのに、そんな魅力を今の社会は切断し、包摂を拒んでいるのはおかしい、としている。

本書に説得力を感じるかどうかは人によるのだろうが、鬱的な気分であり、うつ病に悩まされている人、躁でハードワークな社会に固執しなければならないから、ついていけない自分を間違った存在だとして追い込み続けてしまう痛々しい悩みを抱える人々に対する婉曲的な励ましと優しさは感じられた。

自分が悪いのではなくて、社会が悪いんだ。こういう考えは昔も自己責任が叫ばれる昨今でも槍玉にあげられやすいが、そういう考えが出来ることも大切だと本書は訴えている。間違っているのはあなたではなくて社会の方だよ。そんな、自己実現とかとは違う方向の、温もりのある緩い内容になっている。
                 
        

創価学会 (島田裕巳)

                 
創価学会 (新潮新書)創価学会 (新潮新書)
 創価学会の会員たちが、選挙をはじめとして政治活動に熱心だったのは、その出自が影響を与えていた。第一章で見たように、創価学会の会員となった人間たちは、高度経済成長の波に乗って地方の農村部から大都市部へ出てきたばかりで、都市のなかでは、まだ確固とした生活基盤を築くことのできていない庶民だった。彼らは、未組織の労働者であり、社会党や共産党系の労働組合運動の支持者になる可能性のある人間たちであった。
 ところが、日本の労働組合は企業別組合を特徴としており、労働運動の恩恵にあずかることができるのは、大企業に就職していた労働者たちだけだった。したがって、大企業の組合に所属していない未組織の労働者は、組合運動にすら吸収されなかった。
 その間隙をついたのが創価学会であった。創価学会は、都市部に出てきたものの、労働運動には吸収されなかった人間を入信させるのに成功した。彼らは、労働運動のさらに下に位置づけられ、社会的には徹底して差別されていた。
 社会的に差別されている人間は、現行の社会秩序が崩れ、自分たちが政治的な権力を掌握することを望む。だからこそ、王仏冥合論、国立戒壇の建立という戸田城聖のアイディアは学会員たちの熱烈な支持を得ることに成功した。その意味で、政界進出を果たしてからの創価学会の運動は、たんに宗教の世界の枠にとどまらず、むしろ階級闘争としての性格をもつことになった。

(引用 本書P88-89)


 創価学会に入会すれば、そこには強固な人間関係のネットワークができ上がっている。そのネットワークは日常生活全般に及んでいく。一般の社会に属する人々との付き合いは減り、創価学会員同士の付き合いの方が、より頻繁で深いものになっていく。
 学会員は、地域に生活の場をおいた庶民たちであり、その職種も各種の店主や店員、町工場の工場主や工員、個人タクシーの運転手、保母などに及んでいる。そうした人間たちが集まれば、どんなことでもこなすことができ、何か問題に直面したときは、他の会員たちが相談に乗ってくれるのはもちろん、手術を受けるなどというときには、皆で集まって「南無妙法蓮華経」の題目を上げてくれたりする。引っ越しや葬儀の手伝いもしてくれるし、福祉施設への斡旋が必要となれば、公明党の議員に紹介を依頼してくれたりする。
 また、庶民的な人情家が多く、人間関係の持ち方も決して都会的ではなく、村的な暖かさをもっている。その点で、創価学会の組織は相互扶助の役割を果たす一つの村なのである。

(引用 本書P151)


 創価学会の選挙活動の核になっているのが、「F取り」と「Kづくり」である。
 Fとは、フレンドのことで、F取りとは、学会員が知り合いに公明党議員への投票を依頼し、実際に投票してもらうことを言う。F取りのためには、知り合いに電話を掛けたりすることになるが、その際には、学会員であるということを明かさなければならず、勇気を必要とする。実際、正体を明かしたために、友人と絶縁状態になってしまうこともあるという。
 F取りが外部に対する働きかけであるとすれば、Kづくりは、組織の内部に対する働きかけを意味している。Kとは活動家の略で、学会活動に熱心ではなく、ほとんど休眠状態にある会員を掘り起こし、彼らに公明党議員に投票させることが、Kづくりである。これには、組織を再活性化させるというもう一つの機能がある。

(引用 本書P158)


 財務は年一回行われるが、その一月ほど前には決起大会が開かれ、「百万円出したら息子がいい企業に就職できた」「保険を解約して学会のために捧げたら幸せになりました」といった発言が相次ぎ、他の会員にプレッシャーを与えるという。こうして集められた資金は、巨額にのぼる。大石寺正本堂建立の際には、すでに述べたように三百五十億円集めたが、七四年からの数年間では一千四百億円を集めたという(『創価学会解剖』『創価学会財務部の内幕』を参照)。

(引用 本書P162)


 創価学会が巨大な相互扶助組織であるという点は、組織の維持ということに大きく貢献している。というのも、一度巨大な相互扶助組織のなかに属した人間は、その世界から抜け出すことが難しくなってくるからである。
 創価学会の家庭に生まれた人間がいるとする。その人間の家族は、両親や祖父母をはじめ、親戚の大半は創価学会員で、日頃の付き合いのある人間もほとんどが学会員である。そうした環境に生まれた人間は、子ども時代から学会員とばかり付き合うようになり、自然と学会員の家庭の子どもと友達になっていく。
 その人間が成長し、結婚をしようと考えたとき、果たしてどうなるだろうか。結婚相手として、学会員以外の人間を考えることは相当に難しいであろう。学会員でない相手を折伏し、学会に入ってもらってから結婚するという手立てもあるだろう。しかし、相手が折伏に応じてくれなければ、やはり結婚は難しい。
 もしその人間が、信仰に対して疑問をもったとしたらどうなるのだろうか。子ども時代には、親から言われたとおりに信仰活動を実戦していても、思春期になって、それに疑問を感じることは少なくない。自らの信仰が、自分で選びとったものではなく、親から強制されたものと感じるようになれば、強い反発心が頭をもたげてくることになる。
 そのとき、その人間は重大な岐路に立たされることになる。もし信仰を捨て、学会を抜けるということになれば、それは同時に、家族や知人、友人からなる相互扶助組織を捨てるということを意味するからである。つまり、それまでの人間関係のすべてを捨てなければならない危険性があるわけである。
 果たして、そうしたリスクを冒してまで、脱会へと踏み切れるものなのだろうか。多くの人間は、そこで信仰を捨てるのではなく、あくまで信仰を保ち続ける道を選ぶことになるのではないだろうか。
 現在、折伏によって、新たに創価学会の会員になる人間はそれほど多くはない。しかし、会員の子どもたち、あるいは孫たちは、信仰二世、あるいは三世として、学会のなかに留まる場合が少なくない。それによって、巨大な相互扶助組織は維持され、その力は保たれているのである。

(引用 本書P163-165)


 創価学会が実現しようとしたことは、ある意味で、日本の戦後社会が実現しようとしたことでもあった。敗戦によって打ちのめされた日本国民は、豊かな生活の実現を求めて企業や労働組合といった組織を作り上げ、組織に忠誠を尽くしながら勤勉に働き続けた。その姿は、創価学会の会員たちの姿と重なる。一般の国民は、創価学会の思想や組織のあり方には賛同できなくても、追従する価値については、創価学会員と共通したものをもているのである。
 あるいは、一般の人たちが、創価学会のことを毛嫌いするのは、創価学会が日本の戦後社会の戯画だからではないだろうか。自分たちとまったく無縁なものであるとするなら、毛嫌いする必要もない。ただ無視していればいいはずだ。しかし、創価学会の悪口を言う人は少なくないし、創価学会や池田大作のスキャンダルに対して、決して無関心ではないのである。
 池田大作に対する創価学会員の熱狂にしても、戦前の日本社会に存在した天皇崇拝と重なる部分がある。池田の師であった戸田城聖は、はっきりとその点を意識していて、だからこそ天皇の閲兵式を真似たのだ。
 その意味で、創価学会という組織は、日本人の誰にとっても決して遠い組織ではない。むしろ、私たちの欲望を肥大化させたものが創価学会であるともいえるのである。

(引用 本書P185-186)

駅前を歩いていると人の良さそうな人が近づいてきて、何かと思えば「統一教会ですが、アンケートに協力していただけないでしょうか?」。地味で内気そうな女性による新興宗教のビラ配りや勧誘、手相を見せてください、バスケットはお好きですか? 選挙が近づくと普段大した付き合いのない物腰が柔らかいおばちゃんが家にやってきて、公明党への投票をお願いされる。そんな経験をしたことがないだろうか?

自分は信仰を持っていない。いや、持っていないと思い込んでいるだけで、もしかしたら持っているのかもしれない。ただ、少なくとも自身が信仰のために人生を費やすことにはあまり意義を感じていないし、耐えられないだろうと思っている。

自分が幼い頃、家に宗教の勧誘がよく来た。来た理由はよくわからないが、たぶん母子家庭だったからじゃないかと思う。記憶に残っているぐらいしつこかったのがエホバの証人と創価学会だった。エホバの証人は来るたびによくわからないリーフレットや本を置いていったし、創価学会の人にはお金は払わなくていいから聖教新聞を取ってくれと頼まれて実際に聖教新聞を取っていたことがあった。

聖教新聞ははっきりいってつまらなかった。興味があるのはテレビ欄とスポーツ欄だけだったから、自分にとっては一般紙も等しくつまらないにはつまらなかったのだが、子どもであっても、明らかに普通じゃない新聞だというのが分かった。信者と創価学会に興味ある人間以外にはまったく意味不明な一面。幼い自分にもこれがまともじゃないことがわかったのは、意味不明だからというのもあるが、特定の組織・個人を徹底して賛美し、その組織に都合の悪いものに対しては極めて攻撃的に批判していることはさすがにわかったからだ。大好きだった学習漫画の偉人を紹介する世界の伝記シリーズですら、そこまで極端じゃないというそのバランス感覚を欠いた記事に自分はどうしても馴染めなかった。

結局、我が家(母)は創価学会に入らなかった。入らなかった具体的な理由はよくわからなかったが、少なくとも田舎の土着の泥人間が幅を利かせるうちの地域では創価学会があまりよく思われていないんだろうなというのは感じた。だが、うちの母は創価学会の人とも普通に付き合っていたし、仲良くもしていたようだ。家でも母から創価学会の悪口を聞いたことがない。後になって、古い田舎だけでなく、団地の人間も含めた世間というやつが創価学会のことをあまりよく思っていなかったようだというのがわかった。

今、インターネットがこれだけ普及し、誰もが手軽に意見を発信できるようになったわけだが、そのネットでは創価学会への批判と悪口で溢れ返っているのが現状だ。大体ネットで大勢を占める批判というのは本質を突いたものであってもそれは建前にされて、感情を優先させたバッシングの材料にされているだけとはいえ、ネットで真実じゃないが、やっぱり創価のことをみんな気味悪く思ってたんだなと共感する人は多いことだろう。自分もその気持ちがわかってしまうところがある。

浦沢直樹の『20世紀少年』はカルトとの対決がサスペンスフルに描かれた漫画で、作中に登場するカルト宗教団体”ともだち”は創価学会をモチーフにしているともいわれている。この漫画では”ともだち”という組織や指導者(独裁者)に対しては悪く描かれているのだが、洗脳された一般信者についてはそれほどまでに悪くは描かれていない。あくまで、組織と独裁者に対してターゲットを絞っている。正確にはそんなことはない。そもそも”ともだち”の正体は自分の記憶の中ではあやふやな存在なのに向こうはこちらのことを良く知っていて執着している。そして、身近に何食わぬ顔で潜んでいるそんなカルト信者の恐怖というメッセージも含まれていたからだ。だが、宗教にすがりつくしかない人、宗教に心の拠り所を見つける人、そんな平凡な「人」そのものに対してまでは少なくとも否定的ではなかった。

信仰に無自覚なステレオタイプのような日本人像に当てはまりそうなほとんどの人にとって創価学会ほど身近な存在で、創価学会ほど宗教を意識させる宗教というのはないのではないだろうか。強引な勧誘や選挙活動は創価に迷惑したことのある人間なら確実に共通の話題である。二世・三世で生まれた時から創価に入れられていた人の悩みもネットでよく見るし、恋人・配偶者が創価学会であることの悩みも多いようだ。

本書はそんな風に我々を悩ませてくれる創価学会という組織について客観的に書かれた本で、創価学会の歴史と信仰と組織と学会員の特徴などがわかりやすく説明されている。

学会員同士が作り上げる相互扶助組織が「村」的で、同じ宗教を背景にしたもの同士だからこその助け合いの精神があるノスタルジックで温かい居心地のよい空間だというのは分かった。宗教関係の集まりの良いところというのは道徳が通用し、正義が存在するところだろう。真面目が馬鹿にされない、されにくいというのは高級住宅地に住むことが出来ない、子どもを私立学校・進学校に入れることができない庶民にとって、真面目で自分を追い込むタイプほど理想的に映るかもしれない。

で、あるからこそ悲しくも思う。それは敬虔な信者の持つ多くのものを費やさなければ維持できないのだろうか、と。創価学会も真面目な人が多いのだろう。本書によれば今は二世三世がほとんどだというから、親のために創価学会を信じてきた家族思いな人も多いのだろう。「福子」と称されたその子は成長する毎に、周囲から白い目で見られていることを意識してきただろう。駅前で宗教活動している地味な女性を我々がそういう目で見てきたように、彼らはそういう目で見られてきた。ただ、外では肯定されなくても、内では肯定されてきた。

自由で個人主義で、かなり多くの様々なものが肯定されているはずなのに、厳しい経済状態で脆弱なセーフティネットからあぶれ、自分は肯定されていないと疎外感を抱く人が多いといわれている現在、創価学会・宗教に限らず、ファナティックな現象はあちらこちらに散らばっており、何かにすがるということを否定してしまうことは人間を否定してしまうことなのかなあとも思うわけで、僕が言えるのは、真面目で繊細なあなたのことが好きです、というすごく白々しいことぐらい。

個人の宗教にケチつけてもどうにもならないんなら、うまく騙しちゃった宗教団体にはせめて責任とってその人のことを本当に大切に扱ってあげてほしいと願うばかり。

それでも言おう。やっぱり言おう。ああいうタイプの宗教って精神的にまいってる人とか、不幸な目にあった人とか、自信のなさにつけこんでいるわけだ。そして、ただでさえ自信のない人の自尊心を更に砕いて低くしていく作業だから、自分では輝いてると思っても傍から見ればボロボロになってるというようなケースが少なくないでしょ。幸せになるために入った宗教で、自分を大切にできなくなる、自分で物を考えて自分の価値観で判断できなくなるって、本末転倒だよ。
                 
        

なんと言われようとオレ流さ (落合博満)

                 

なんと言われようとオレ流さ
 やれ研修会だ、実習訓練だと、今はサラリーマン世界も手取り足取りらしいが、野球界もご多分にもれず、みんな自分の野球をやっていない。
 たとえ、俗に言う管理野球の中にあっても、自分の個性を売ることはできるのに、誰もそれをしようとしていない。
 というのは、リトルリーグからはじまり、甲子園、大学野球と、いわゆる名門コースを歩んでプロ入りするのが常識になって、「管理されるほうがいいんだ!」と、みんなが頭から信じ込んでいる。最初からプロ意識を持とうなどという気はないようだ。
 オレの場合、野球人生そのものが遅くはじまった。しかも、食っていくためにはじめたから、あえて”我”を通し続けている。そういう意味では、今の野球界でいちばんオレが自分を大事にしてるんじゃないだろうか。

(引用 本書P13-14)

自分にとって史上最高の四番打者といえば今でも落合博満である。もしかしたら死ぬまで落合博満かもしれない。
現役時代は史上初めての3度の三冠王に輝く落合だが、本書は2度目の三冠王に輝いた昭和60年のシーズンの後に出版された本で、落合博満の全盛期といっていいかもしれない現役時に綴られた貴重なものになっている。

プロ野球は団体の職業ではなく個人の職業であることを押し出すべきと主張する著者の高いプロ意識による考えは非常にユニークで、またユニークであるからこそプロなのであり、そういう意味で子供と学生以外はプロであるべきだと書かれている。
野球といえば体育会系の軍隊式というイメージで企業もその組織主義的な管理野球論を取り入れているところがあるようだが、著者自身はそういうのが嫌いで我を通し続けてきたと野球部退部や何もせずフラフラしてプロボウラーを目指そうと思った時期など野球選手としては異色な経歴のエピソードが面白い。
著者のユニークな理論と実践の説明に説得力を与えているのはプロ野球の世界で叩き出した優れた結果によってであるが、なるほどやはり天才は違うもんだなと思わせるだけの興味深い経歴が落合博満という世紀の大打者の魅力であり、本書の内容を肉付けしている。

バッテイング技術についてなどの野球理論や、また、著者が独身の頃のプライベートはだらしがないというか奔放で、妻の信子さんがいなければ家では何もできないという告白も面白い。落合信子というと豪快なカカアというイメージだが、実際はかなり古風な女性のようで、著者は常に味方としてサポートしてくれる妻信子さんへの愛情と感謝の念が溢れんばかりにこめられているのも微笑ましくて面白かった。

野球で失敗してもどうにか食うだけは食っていけるさ、という縛られない前向きな考えが眩しい成功者の本だが、その眩しさが読むものに元気を与えてくれる。落合博満というプロの魅力が詰められた一冊になっている。
                 
    
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