創価学会 (島田裕巳)

                 
創価学会 (新潮新書)創価学会 (新潮新書)
 創価学会の会員たちが、選挙をはじめとして政治活動に熱心だったのは、その出自が影響を与えていた。第一章で見たように、創価学会の会員となった人間たちは、高度経済成長の波に乗って地方の農村部から大都市部へ出てきたばかりで、都市のなかでは、まだ確固とした生活基盤を築くことのできていない庶民だった。彼らは、未組織の労働者であり、社会党や共産党系の労働組合運動の支持者になる可能性のある人間たちであった。
 ところが、日本の労働組合は企業別組合を特徴としており、労働運動の恩恵にあずかることができるのは、大企業に就職していた労働者たちだけだった。したがって、大企業の組合に所属していない未組織の労働者は、組合運動にすら吸収されなかった。
 その間隙をついたのが創価学会であった。創価学会は、都市部に出てきたものの、労働運動には吸収されなかった人間を入信させるのに成功した。彼らは、労働運動のさらに下に位置づけられ、社会的には徹底して差別されていた。
 社会的に差別されている人間は、現行の社会秩序が崩れ、自分たちが政治的な権力を掌握することを望む。だからこそ、王仏冥合論、国立戒壇の建立という戸田城聖のアイディアは学会員たちの熱烈な支持を得ることに成功した。その意味で、政界進出を果たしてからの創価学会の運動は、たんに宗教の世界の枠にとどまらず、むしろ階級闘争としての性格をもつことになった。

(引用 本書P88-89)


 創価学会に入会すれば、そこには強固な人間関係のネットワークができ上がっている。そのネットワークは日常生活全般に及んでいく。一般の社会に属する人々との付き合いは減り、創価学会員同士の付き合いの方が、より頻繁で深いものになっていく。
 学会員は、地域に生活の場をおいた庶民たちであり、その職種も各種の店主や店員、町工場の工場主や工員、個人タクシーの運転手、保母などに及んでいる。そうした人間たちが集まれば、どんなことでもこなすことができ、何か問題に直面したときは、他の会員たちが相談に乗ってくれるのはもちろん、手術を受けるなどというときには、皆で集まって「南無妙法蓮華経」の題目を上げてくれたりする。引っ越しや葬儀の手伝いもしてくれるし、福祉施設への斡旋が必要となれば、公明党の議員に紹介を依頼してくれたりする。
 また、庶民的な人情家が多く、人間関係の持ち方も決して都会的ではなく、村的な暖かさをもっている。その点で、創価学会の組織は相互扶助の役割を果たす一つの村なのである。

(引用 本書P151)


 創価学会の選挙活動の核になっているのが、「F取り」と「Kづくり」である。
 Fとは、フレンドのことで、F取りとは、学会員が知り合いに公明党議員への投票を依頼し、実際に投票してもらうことを言う。F取りのためには、知り合いに電話を掛けたりすることになるが、その際には、学会員であるということを明かさなければならず、勇気を必要とする。実際、正体を明かしたために、友人と絶縁状態になってしまうこともあるという。
 F取りが外部に対する働きかけであるとすれば、Kづくりは、組織の内部に対する働きかけを意味している。Kとは活動家の略で、学会活動に熱心ではなく、ほとんど休眠状態にある会員を掘り起こし、彼らに公明党議員に投票させることが、Kづくりである。これには、組織を再活性化させるというもう一つの機能がある。

(引用 本書P158)


 財務は年一回行われるが、その一月ほど前には決起大会が開かれ、「百万円出したら息子がいい企業に就職できた」「保険を解約して学会のために捧げたら幸せになりました」といった発言が相次ぎ、他の会員にプレッシャーを与えるという。こうして集められた資金は、巨額にのぼる。大石寺正本堂建立の際には、すでに述べたように三百五十億円集めたが、七四年からの数年間では一千四百億円を集めたという(『創価学会解剖』『創価学会財務部の内幕』を参照)。

(引用 本書P162)


 創価学会が巨大な相互扶助組織であるという点は、組織の維持ということに大きく貢献している。というのも、一度巨大な相互扶助組織のなかに属した人間は、その世界から抜け出すことが難しくなってくるからである。
 創価学会の家庭に生まれた人間がいるとする。その人間の家族は、両親や祖父母をはじめ、親戚の大半は創価学会員で、日頃の付き合いのある人間もほとんどが学会員である。そうした環境に生まれた人間は、子ども時代から学会員とばかり付き合うようになり、自然と学会員の家庭の子どもと友達になっていく。
 その人間が成長し、結婚をしようと考えたとき、果たしてどうなるだろうか。結婚相手として、学会員以外の人間を考えることは相当に難しいであろう。学会員でない相手を折伏し、学会に入ってもらってから結婚するという手立てもあるだろう。しかし、相手が折伏に応じてくれなければ、やはり結婚は難しい。
 もしその人間が、信仰に対して疑問をもったとしたらどうなるのだろうか。子ども時代には、親から言われたとおりに信仰活動を実戦していても、思春期になって、それに疑問を感じることは少なくない。自らの信仰が、自分で選びとったものではなく、親から強制されたものと感じるようになれば、強い反発心が頭をもたげてくることになる。
 そのとき、その人間は重大な岐路に立たされることになる。もし信仰を捨て、学会を抜けるということになれば、それは同時に、家族や知人、友人からなる相互扶助組織を捨てるということを意味するからである。つまり、それまでの人間関係のすべてを捨てなければならない危険性があるわけである。
 果たして、そうしたリスクを冒してまで、脱会へと踏み切れるものなのだろうか。多くの人間は、そこで信仰を捨てるのではなく、あくまで信仰を保ち続ける道を選ぶことになるのではないだろうか。
 現在、折伏によって、新たに創価学会の会員になる人間はそれほど多くはない。しかし、会員の子どもたち、あるいは孫たちは、信仰二世、あるいは三世として、学会のなかに留まる場合が少なくない。それによって、巨大な相互扶助組織は維持され、その力は保たれているのである。

(引用 本書P163-165)


 創価学会が実現しようとしたことは、ある意味で、日本の戦後社会が実現しようとしたことでもあった。敗戦によって打ちのめされた日本国民は、豊かな生活の実現を求めて企業や労働組合といった組織を作り上げ、組織に忠誠を尽くしながら勤勉に働き続けた。その姿は、創価学会の会員たちの姿と重なる。一般の国民は、創価学会の思想や組織のあり方には賛同できなくても、追従する価値については、創価学会員と共通したものをもているのである。
 あるいは、一般の人たちが、創価学会のことを毛嫌いするのは、創価学会が日本の戦後社会の戯画だからではないだろうか。自分たちとまったく無縁なものであるとするなら、毛嫌いする必要もない。ただ無視していればいいはずだ。しかし、創価学会の悪口を言う人は少なくないし、創価学会や池田大作のスキャンダルに対して、決して無関心ではないのである。
 池田大作に対する創価学会員の熱狂にしても、戦前の日本社会に存在した天皇崇拝と重なる部分がある。池田の師であった戸田城聖は、はっきりとその点を意識していて、だからこそ天皇の閲兵式を真似たのだ。
 その意味で、創価学会という組織は、日本人の誰にとっても決して遠い組織ではない。むしろ、私たちの欲望を肥大化させたものが創価学会であるともいえるのである。

(引用 本書P185-186)

駅前を歩いていると人の良さそうな人が近づいてきて、何かと思えば「統一教会ですが、アンケートに協力していただけないでしょうか?」。地味で内気そうな女性による新興宗教のビラ配りや勧誘、手相を見せてください、バスケットはお好きですか? 選挙が近づくと普段大した付き合いのない物腰が柔らかいおばちゃんが家にやってきて、公明党への投票をお願いされる。そんな経験をしたことがないだろうか?

自分は信仰を持っていない。いや、持っていないと思い込んでいるだけで、もしかしたら持っているのかもしれない。ただ、少なくとも自身が信仰のために人生を費やすことにはあまり意義を感じていないし、耐えられないだろうと思っている。

自分が幼い頃、家に宗教の勧誘がよく来た。来た理由はよくわからないが、たぶん母子家庭だったからじゃないかと思う。記憶に残っているぐらいしつこかったのがエホバの証人と創価学会だった。エホバの証人は来るたびによくわからないリーフレットや本を置いていったし、創価学会の人にはお金は払わなくていいから聖教新聞を取ってくれと頼まれて実際に聖教新聞を取っていたことがあった。

聖教新聞ははっきりいってつまらなかった。興味があるのはテレビ欄とスポーツ欄だけだったから、自分にとっては一般紙も等しくつまらないにはつまらなかったのだが、子どもであっても、明らかに普通じゃない新聞だというのが分かった。信者と創価学会に興味ある人間以外にはまったく意味不明な一面。幼い自分にもこれがまともじゃないことがわかったのは、意味不明だからというのもあるが、特定の組織・個人を徹底して賛美し、その組織に都合の悪いものに対しては極めて攻撃的に批判していることはさすがにわかったからだ。大好きだった学習漫画の偉人を紹介する世界の伝記シリーズですら、そこまで極端じゃないというそのバランス感覚を欠いた記事に自分はどうしても馴染めなかった。

結局、我が家(母)は創価学会に入らなかった。入らなかった具体的な理由はよくわからなかったが、少なくとも田舎の土着の泥人間が幅を利かせるうちの地域では創価学会があまりよく思われていないんだろうなというのは感じた。だが、うちの母は創価学会の人とも普通に付き合っていたし、仲良くもしていたようだ。家でも母から創価学会の悪口を聞いたことがない。後になって、古い田舎だけでなく、団地の人間も含めた世間というやつが創価学会のことをあまりよく思っていなかったようだというのがわかった。

今、インターネットがこれだけ普及し、誰もが手軽に意見を発信できるようになったわけだが、そのネットでは創価学会への批判と悪口で溢れ返っているのが現状だ。大体ネットで大勢を占める批判というのは本質を突いたものであってもそれは建前にされて、感情を優先させたバッシングの材料にされているだけとはいえ、ネットで真実じゃないが、やっぱり創価のことをみんな気味悪く思ってたんだなと共感する人は多いことだろう。自分もその気持ちがわかってしまうところがある。

浦沢直樹の『20世紀少年』はカルトとの対決がサスペンスフルに描かれた漫画で、作中に登場するカルト宗教団体”ともだち”は創価学会をモチーフにしているともいわれている。この漫画では”ともだち”という組織や指導者(独裁者)に対しては悪く描かれているのだが、洗脳された一般信者についてはそれほどまでに悪くは描かれていない。あくまで、組織と独裁者に対してターゲットを絞っている。正確にはそんなことはない。そもそも”ともだち”の正体は自分の記憶の中ではあやふやな存在なのに向こうはこちらのことを良く知っていて執着している。そして、身近に何食わぬ顔で潜んでいるそんなカルト信者の恐怖というメッセージも含まれていたからだ。だが、宗教にすがりつくしかない人、宗教に心の拠り所を見つける人、そんな平凡な「人」そのものに対してまでは少なくとも否定的ではなかった。

信仰に無自覚なステレオタイプのような日本人像に当てはまりそうなほとんどの人にとって創価学会ほど身近な存在で、創価学会ほど宗教を意識させる宗教というのはないのではないだろうか。強引な勧誘や選挙活動は創価に迷惑したことのある人間なら確実に共通の話題である。二世・三世で生まれた時から創価に入れられていた人の悩みもネットでよく見るし、恋人・配偶者が創価学会であることの悩みも多いようだ。

本書はそんな風に我々を悩ませてくれる創価学会という組織について客観的に書かれた本で、創価学会の歴史と信仰と組織と学会員の特徴などがわかりやすく説明されている。

学会員同士が作り上げる相互扶助組織が「村」的で、同じ宗教を背景にしたもの同士だからこその助け合いの精神があるノスタルジックで温かい居心地のよい空間だというのは分かった。宗教関係の集まりの良いところというのは道徳が通用し、正義が存在するところだろう。真面目が馬鹿にされない、されにくいというのは高級住宅地に住むことが出来ない、子どもを私立学校・進学校に入れることができない庶民にとって、真面目で自分を追い込むタイプほど理想的に映るかもしれない。

で、あるからこそ悲しくも思う。それは敬虔な信者の持つ多くのものを費やさなければ維持できないのだろうか、と。創価学会も真面目な人が多いのだろう。本書によれば今は二世三世がほとんどだというから、親のために創価学会を信じてきた家族思いな人も多いのだろう。「福子」と称されたその子は成長する毎に、周囲から白い目で見られていることを意識してきただろう。駅前で宗教活動している地味な女性を我々がそういう目で見てきたように、彼らはそういう目で見られてきた。ただ、外では肯定されなくても、内では肯定されてきた。

自由で個人主義で、かなり多くの様々なものが肯定されているはずなのに、厳しい経済状態で脆弱なセーフティネットからあぶれ、自分は肯定されていないと疎外感を抱く人が多いといわれている現在、創価学会・宗教に限らず、ファナティックな現象はあちらこちらに散らばっており、何かにすがるということを否定してしまうことは人間を否定してしまうことなのかなあとも思うわけで、僕が言えるのは、真面目で繊細なあなたのことが好きです、というすごく白々しいことぐらい。

個人の宗教にケチつけてもどうにもならないんなら、うまく騙しちゃった宗教団体にはせめて責任とってその人のことを本当に大切に扱ってあげてほしいと願うばかり。

それでも言おう。やっぱり言おう。ああいうタイプの宗教って精神的にまいってる人とか、不幸な目にあった人とか、自信のなさにつけこんでいるわけだ。そして、ただでさえ自信のない人の自尊心を更に砕いて低くしていく作業だから、自分では輝いてると思っても傍から見ればボロボロになってるというようなケースが少なくないでしょ。幸せになるために入った宗教で、自分を大切にできなくなる、自分で物を考えて自分の価値観で判断できなくなるって、本末転倒だよ。
                 

コメント

        

        
> > 創価学会 (島田裕巳)